函館に歴史を刻んだ偉人②マシュー・ペリー
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産業革命によって西ヨーロッパ各国がアジアへの市場拡大を急ぐ中、遅れをとったアメリカは、太平洋航路の確立が至上命題となります。夜間に稼動する工場でランプの灯火として使用する鯨油を搾取するため、アメリカは太平洋の日本近海で700隻もの捕鯨船を操業。開港は薪、水、食料の補給だけでなく、植民地化を目的とした寄航拠点の確保でもありました。
東インド艦隊司令長官に就任したマシュー・ペリーは、大統領から日本開国の指令を受け、当時最新鋭だった大型蒸気軍艦サスケハナ号を含む4隻の艦隊を編成。1853(嘉永6)年6月3日に黒船が浦賀へ入港します。目的は、将軍に大統領親書を渡すこと。返事を待つ3日間、羽田沖まで艦隊を進めて空砲で威嚇行動に出ます。幕府は船の大きさ、大砲の桁違いの装備等立ち向かうのは困難と判断。時間稼ぎのため、翌年の出直しを求めました。ペリーは1年後に再び来ると告げ、琉球経由で香港へと帰ります。
翌年1月、再び浦賀に来航。幕府との取り決めは1年間でしたが、香港で将軍・家慶の死を知り、あえて半年で決断を迫ったのです。約1ヶ月にわたる協議の末、幕府はアメリカの開国要求を受け入れると返答。全12カ条に及ぶ日米和親条約(神奈川条約)の締結で正式合意し、下田は即日開港、箱館は翌年3月開港と決定しました。
翌年の下見のため、ペリーは下田からわずか4日と4時間で箱館へ入港します。その15日前に幕府からペリー来航を知らされた松前藩は、箱館住民がペリー側との接触を禁止する18カ条のお触れを出し、女性や子供を郊外に避難させ、牛や酒を人目につかない場所へ隠し、さらに海岸線2キロに渡って目隠し塀を設けるなど、混乱防止に躍起となりました。ペリーの目の前に開けた港は、安全に入っていける広さの湾を持つ良港といえる素晴らしさで、ジブラルタルに類似していると日記に記しております。ところで、彼らが利用した海図の中に「HAKODADI」とある記述は、箱館人の訛った発音からでしょう。
松前藩の役人は、黒船来航に肝を潰します。幕府からアメリカ船に食料・水を供給し、そつがなく対応せよとは聞いてはいたものの、横浜で締結された日米和親条約の内容は、まったく報告されていませんでした。条約の詳細を知る前に、艦隊が先に寄港したのです。入港の翌日に弁天町の豪商・山田屋寿兵衛の屋敷で公式会見が始まり、貿易上の様々な便宜、宿舎、遊歩の自由など下田で許されたことが伝達され、箱館での対応が願い出されました。ペリーは滞在中、4度の箱館見物を行いました。市中はもとより、箱館山や郊外の亀田・七重浜まで足を伸ばして視察を繰り返します。さらに、港湾形態・鉱物・植物・魚介類・気象などの情報を収集し、軍人としての任務遂行を果たしました。また、沖之口番所(現在の函館市臨海研究所)付近でお土産を一括購入出来る特設バザーが開設され、1600両分を購入してもらうなど、多くの住民と触れ合いました。その甲斐あってか、ペリー一行は大勢の住民が見送る中、箱館港を出航しました。来航からおよそ18日(艦隊一行は24日)間の滞在中、大きなトラブルもなく松前藩は安堵しました、
彼らはこのあと、下田に戻り、幕府側と細かな規則の詰めを行い、実に135日間もの長きにわたる日本での任務を終えます。その後、アメリカはヨーロッパ諸国に先駆けて日本と自由貿易を遂行するため、1858(安政5)年に日米修好通商条約を締結。その翌年に本格的貿易港として横浜、長崎と同時開港した箱館は、積極的に欧米文化を吸収しながら、15カ国との外交業務が行われ、東北以北最大の都市として大きく変貌を遂げていきます。
※執筆:箱館歴史散歩の会主宰 中尾仁彦(なかお とよひこ) 2010/08/01公開
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