戦いの場として見た、西洋式城郭「五稜郭」の魅力
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堀に囲まれた星形が美しい、函館・五稜郭。元は江戸幕府の役所の施設として築造されましたが、戊辰戦争最後の戦いとなった箱館戦争において、榎本武揚や土方歳三を含む旧幕府勢力の拠点となったことで広く知られます。
今なお当時の姿をとどめる五稜郭をつぶさに観察すると、旧幕府勢力がここを拠点に選んだ理由や、五稜郭で最終決戦が行われなかった理由が見えてきます。この記事では、函館市教育委員会の学芸員・野村祐一さんに案内役をお願いし、五稜郭の「城郭」としての注目ポイントをご紹介します。
【五稜郭築造の背景】
◆江戸幕府が外国への防備目的で築造
1853(嘉永6)年にペリー提督率いるアメリカ艦隊が日本へ来航し、幕府は翌年に日米和親条約を締結。アメリカ船に対して下田と箱館(現在の函館)の2港を開港しました。これに伴い、幕府は外国の脅威に備えて箱館の防備を固めようと考えます。そこで、箱館湾に台場(砲台)を3つ築いて湾内ににらみをきかせるとともに、箱館湾を行き交う外国船から丸見えだった箱館奉行所(箱館御役所。現在の元町公園周辺)を、内陸に移転することを計画します。
▲五稜郭タワー1階にある武田斐三郎像
箱館奉行所と台場の設計は、蘭学者の武田斐三郎(あやさぶろう)が行いました。斐三郎は、箱館に入港したフランス軍艦の軍人が箱館奉行所に贈った西洋式築城術の書籍などをもとに、箱館奉行所を防備するための備えとして、銃砲での戦闘に対応した稜堡(りょうほ)式による城郭を設計します。
初期の設計図のひとつ「五稜郭初度設計図」(市立函館博物館所蔵)。鋭角の「稜堡」を5つ備えた星形の土塁で、稜堡と稜堡の間に、「半月堡(はんげつほ)」と呼ばれる三角形の土塁を5つ備えた姿が描かれています。この星形五角形の特徴的な形状から、いつしか「五稜郭」と呼ばれるようになりました。
▲五稜郭タワー 展望2階「五稜郭歴史回廊」ジオラマより
五稜郭は1857(安政4)年に着工し、1864(元治1)年にほぼ完成を見ました。これに伴い、箱館奉行所も現在の元町公園の場所から五稜郭へ移転しました。
◆五稜郭がこの場所に建てられた理由
両側を海にはさまれた箱館の地は、海からの攻撃、つまり艦砲射撃に弱い面がありました。裏を返せば、艦砲射撃が届かない内陸に奉行所を置けば安全です。とはいえ、当時の箱館は函館山のふもと付近のごく狭い範囲だけに街が広がっていて、それ以外の場所にはほとんど人が住んでいませんでした。
いくら安全のためとはいえ、行政の中心である奉行所が市街地からあまり離れるのも不便です。五稜郭設計当時、艦砲射撃は3キロほどしか届かないとされていました。そこで幕府は、建設地を海から3.5キロほど離れた現在の場所に決定。この付近はすり鉢状に低くなっており、箱館湾から見えにくい場所だったことも選定の理由となりました。
◆計画の変更
この間、1858(安政5)年には「安政の五カ国条約」が幕府と欧米各国との間で締結され、箱館はすでに貿易港として外国船に開かれていました。その結果、欧米が軍事力に物を言わせて攻めてくるのでは......との不安が薄れ、資金不足のせいもあって箱館の防備を固める計画は大幅に簡略化されることに。五稜郭は5カ所に作る予定だった半月堡を正面の1カ所に減らし、出入り口を石組みのアーチ状にする計画も廃止されました。
台場も計画の3カ所から1カ所に減らされてしまいます。そのかわり、唯一築造される弁天台場には力を注ぎ、15門前後の大砲を箱館湾に向け、行き交う外国船ににらみをきかせることになりました。
▲田本写真帳アルバムより「函館港全景」(部分)(函館市中央図書館所蔵)
弁天台場は海に突き出したホームベース型の砲台で、現在の函館どつく(ドック)付近にありました。
▲「弁天崎砲台」絵葉書(函館市中央図書館所蔵)
五稜郭では計画が廃止されたアーチ状の出入り口も備え、全体を石垣で覆った堅牢な造りとなっていました。
【防備に優れた城郭・五稜郭の秘密】
◆星形であること
学芸員の野村さんは、「五稜郭が星形である理由は2つある」と考えます。ひとつは、どの方向から攻められても必ず2方向から銃砲で反撃できる「十字砲火」を可能にする、西洋式築城法で設計されたから。
もうひとつの理由は、「欧米に対してのアピールだったのでは?」。その真意を、「つい最近開国したばかりの極東の島国に、ヨーロッパと同じ城郭があるという驚きを諸外国に与え、軍事力や技術力を誇示する意味があったに違いない」と説明します。
◆半月堡をもつ
▲「五稜郭創置年月取調書」付図「五稜郭目論見図」(函館市中央図書館所蔵)
当初は5つ設けるはずだったのに、計画変更で1カ所に減らされてしまった半月堡。稜堡の側面を援護する目的のほか、郭内から人馬が出てくるのが外部から直接見えないようにする役目もありました。
半月堡があれば、城郭に接近してくる敵に、より近くから反撃することもできます。実際に半月堡に立って五稜郭正面の「一の橋」方向に目をやると、侵入しようとする敵がいた場合に、至近距離から十字砲火を浴びせることができるのが実感できます。
◆星形に切り欠きがある
五稜郭を上から見ると、単純な星形ではなく、稜堡と稜堡の間の凹部に切り欠きがあることがわかります。この切り欠きは稜堡式城郭に見られる特徴のひとつで、「フランク」と呼ばれるもの。おもに、銃撃戦の際に稜堡の側面を援護する役割があります。
学芸員の野村さんはそれに加え、切り欠きの角度が稜堡の延長線と一致することから、「設計した武田斐三郎の美意識が表れているのでは?」とも考えます。「ヨーロッパの稜堡式城郭に勝るとも劣らない美しさ」とされる五稜郭の姿を構成する、重要な要素といえるかもしれません。
◆土塁と石垣
ヨーロッパ式の稜堡式城郭は、石垣ではなく土を厚く積み上げた「土塁」を築くのが基本です。大砲の砲弾が石垣を直撃すると石が砕けて飛び散り、それがさらに味方を傷つける二次被害をもたらすためです。この考えに基づき、五稜郭も基本的には土を盛り上げた土塁を巡らせる構造になっています。
ただし、半月堡や郭内への出入口となる3カ所の「本塁」は、防備を固める意味で一部に石垣造りが取り入れられています。特に正面の本塁の石垣は大型の石を使って一段と高く築かれており、さらに空堀(からぼり)を造って地面からの高さを出しています。
また、半月堡や正面の本塁の石垣には、上部に「はね出し」または「武者返し」と呼ばれる防御のためのせり出しがあり、万一下からよじ登ってくる相手を撃退することができます。石垣には、函館山から切り出した安山岩が用いられています。
堀の周りは、当初の設計では石垣ではなく、土のままになる予定でした。ところが、冬に凍結して土が崩れてしまったため、石垣を築いて土留めにしたものです。防御の目的ではないため、半月堡(上)の石垣と比べると石も小さく、それほど緻密に組まれていないことがわかります。
◆見隠し塁
本塁の切れ目を通って郭内に侵入しようとする敵は、本塁の上からの攻撃を受けることになります。運よく通過できたとしても、すぐに大きな壁のような石垣にぶつかります。この大きな壁が「見隠し塁(みかくしるい)」で、郭内に侵入した敵の勢いをそぎ、兵力を左右二手に分散する意味合いがあります。
横に回り込んでみると、見隠し塁が箱館奉行所の姿を覆い隠すように築かれていることがわかります。
◆長斜坂
五稜郭の周囲には、土を盛り上げた「長斜坂(ちょうしゃはん)」と呼ばれる構造物があります。これも、箱館奉行所を防備するための備えのひとつでした。
稜堡式城郭には、土塁の足元に死角ができるという欠点があります。土塁の上から急角度で銃を下に向けて撃つことができないためです。これを補うために考案されたのが長斜坂。土塁の周りにゆるやかな坂を築くことで、銃弾が届かない死角をなくし、接近する敵を効率よく迎え撃つことができるようになっています。
【箱館戦争の舞台としての第2幕】
◆稜堡内にスロープを増設
五稜郭の5つの稜堡の内側には、大砲を引き上げるためのスロープが築かれています。発掘調査により、このスロープは五稜郭築造当時にはなく、榎本武揚らが五稜郭を占拠した後に、戦いに備えて築いたものであることがわかっています。それ以前には、五稜郭に大砲はほとんどありませんでした。
◆侵入口である橋を落とす
五稜郭の正面は南西側で、2本の橋を渡って郭内へ入ります。このほか、北側には裏門橋があります。築造当時にはもう一カ所、北東側にも橋がありましたが、箱館戦争時に裏手の守りを固めるために、旧幕府勢力によって落とされたと考えられています。
北東側の橋があった場所の石垣は周囲よりも堅牢に作られており、現在もはっきりとその跡を見ることができます。
◆太鼓櫓の落とし穴
銃砲での戦いに適した五稜郭は、一定の軍事力を背景に蝦夷地開拓を目指そうとしていた榎本ら旧幕府勢力にとっても、まさにうってつけの軍事拠点だったといえます。圧倒的な兵力で旧幕府勢力を追い詰めた新政府軍も、最後まで五稜郭に直接攻め入ることはありませんでした。「国内ではほとんどの人が目にしたことのない西洋式城郭であり、下手に攻め込めば危険だとの認識があったからでは?」と野村さんは指摘します。
ところが、兵器の進歩が榎本らに災いしました。新政府軍の最新式軍艦「甲鉄」が積んでいたアームストロング砲(大砲)の砲弾が、箱館湾から3.5キロ離れた五稜郭に届いたのです。
この時、箱館湾からの艦砲射撃の照準とされたのが、奉行所の正面玄関奥にそびえる「太鼓櫓(たいこやぐら)」でした。五稜郭は港から見えにくい「くぼ地」にありましたが、定刻に太鼓を鳴らして時間を知らせる目的で作られた太鼓櫓だけは高い位置にあったため、港に侵入した新政府軍の軍艦から見えていたのです。これに気づいた榎本はあわてて撤去させますが、時すでに遅し。この砲撃で兵士十数人が死傷します。
◆土方歳三が危険を冒して出撃した理由
▲五稜郭タワー 展望2階「五稜郭歴史回廊」ジオラマより
土方歳三が戦死したのは、五稜郭が艦砲射撃を受ける前日、1869(明治2)年5月11日。新選組などが守護していた弁天台場が新政府軍の攻撃で孤立したため、仲間を救援しようと出撃して戦死した......というストーリーが定着しています。
「もちろんそれもあると思いますが、五稜郭を守るためには箱館湾に砲門を向けた弁天台場の存在が不可欠だったという面も大きいのでは?」と野村さん。当時最強の軍艦と言われた開陽丸を前年に失い、海軍力で大きく劣った旧幕府勢力にとって、弁天台場は守りの切り札でした。
「弁天台場を失えば、五稜郭は敗れる」。有能な指揮官として腕を振るった土方には、戦の行く末がはっきりと見えていたのかもしれません。
▲五稜郭タワー展望2階「五稜郭復元模型」
諸外国の脅威に対抗するとともに日本の威信を示すために計画され、やがて明治政府と異なる未来を描いた武士(もののふ)たちの夢の舞台となった五稜郭。戦場となることを免れ、貴重な西洋式城郭の姿を今に伝えるものとして、国の特別史跡に指定されています。その城郭としてのポイントに注目しながら散策してみると、それぞれの時代を懸命に生きた人たちの思いが伝わってくるようです。
協力/函館市教育委員会
2021/10/14公開