箱館戦争ゆかりの地、碧血碑前で慰霊祭
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函館は、1868(明治元)年から翌1869年にかけて、旧幕府軍と新政府軍の最後の戦いである箱館戦争の舞台となりました。榎本武揚率いる旧幕府軍が現森町の鷲ノ木に上陸し、占拠した五稜郭を明け渡すまでの約7カ月にわたる戦いは、今もひと時代の終焉の象徴として語り継がれるものです。
現在、新政府軍の戦没者の慰霊は函館護国神社(招魂社)の例祭で、旧幕府軍戦死者の慰霊は碧血碑で行われています(函館市史より)。勝敗の決した千代岡陣屋陥落は、旧暦の5月16日。今の暦でこの日に当たる6月25日ごろに、毎年旧幕府軍の法要が碧血碑前で営まれます。
◆旧幕府軍兵士の霊を祀る碧血碑は、函館山の緑の中に
碧血碑を訪ねるには、市電の谷地頭電停から坂と函館山麓の長い階段をたどって、徒歩で15~20分。慰霊祭のある6月下旬には、山道のわきにアジサイのつぼみがのぞき、鳥やエゾハルゼミの鳴き声も聞こえる、緑の深い場所です。
「碧血碑」の名の由来は、「義に殉じて流した武人の血は、三年たつと碧色になる」という中国の故事の一節。主君である徳川家に忠義を誓い、蝦夷地での生き残りを目指した旧幕府軍兵士たちは、戦争終結後「賊軍」との汚名を受けて、弔われないままおかれたそう。
それを、料亭を営む侠客・柳川熊吉が収容して市内の実行寺(じつぎょうじ)に埋葬。1875(明治8)年になってこの地に慰霊碑が建てられ、土方歳三をはじめとする約800人の兵士の霊が祀られました。戦いについて、碑には「此事(このこと)」とだけ刻まれています。
碧血碑に上る手前左手には、この土地を購入して慰霊碑の建立に尽力した柳川熊吉の義挙を伝える石碑が建っています。
◆慰霊祭は実行寺僧侶の読経のなか、おごそかに進行
例年、初夏の日射しがまだ高い午後2時、慰霊祭が始まります。旧幕府軍の戦死者を柳川熊吉とともに埋葬したのが、実行寺の住職・日隆。慰霊祭は、その実行寺の僧侶の方々が読経するなか、執り行われます。
※2018年は北海道東照宮による慰霊祭となります
参列した幕臣の子孫、関係者を中心とした箱館碧血会会員、一般市民ら約60人が焼香して合掌。近隣の谷地頭保育園園児も、手を合わせて頭を下げる姿が見られました。
◆生花を散らして供養する「散華」の法要
参列者の焼香のあと、僧侶が高さ約6メートルの碑の周囲を回りながら「南無妙法蓮華経」と唱え、籠に入れた白い花を散らしていきます。足元には花が点々と。
これは「散華(さんげ)」という法要のひとつで、一般的に蓮の花を模した「紙」を撒いて供養するというもの。実行寺住職の望月伸泰(しんたい)さんによると、「先々代の住職が、本来の散華の形である『生花』で供養したいと考えたのが始まりです。
毎年、寺の庭でマーガレットを育てて、慰霊祭の朝摘み取っています。野の花のような強さと美しさを持った、幕末の志士に似合う花ですね。これを3本の指でつまんで頭上に掲げ、作法にのっとって行っています」とのことでした。
散華とは「戦死」という意味もある言葉。碑の周りに散らされた花を眺めながら、野に散った兵士たちをしのび、約20分の慰霊祭は終了しました。
2018年6月24日(日)14時から
碧血碑(函館市谷地頭町1)前にて
※2018年は北海道東照宮による慰霊祭
2012/6/28公開
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