函館に歴史を刻んだ偉人④新島襄
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写真:新島襄(函館市中央図書館所蔵)
今年2010年は新島襄が同志社大学の前身を作って135年の節目にあたり、6月に新島襄海外渡航乗船之処碑で同志社大学の関係者により墓前祭が実施されました。
箱館には、武田斐三郎が教授をしていた「諸術調所」に入学すべく、はるばる江戸からやって来ました。あいにく斐三郎は江戸へ帰っていたため、塾頭・菅沼精一郎の紹介でハリストス正教会に住まわせてもらいます。同教会2代目神父のニコライは、鎖国時代に国禁を犯す襄の脱国に関し、表立っては中止を勧めざるを得ませんでした。しかし、当時は珍しかった写真を撮って江戸の家族に送付するなど陰ながらの支えとなり、前途を励ましたそうです。
五稜郭が竣工した1864(元治元)年、上海経由で密かにアメリカへ脱出。渡米後は苦労の末、アーモスト大学を卒業します。日本人として初めて、アメリカの正規大学を卒業し、牧師の資格も修得しました。1874(明治7)年、ようやくキリスト教が解禁になった日本へ帰国。翌年京都に開いた「同志社英学校」が、今日の同志社大学です。
帰国後に襄が書いた「函楯紀行」によれば、箱館滞在中、眼病にかかり、教会の東隣にあった「箱館ロシア病院」に入院します。外来患者診察所と入院室66からなる設備が良いと評価しております。また、ロシア病院は、日本人医師のように貧富を見分け、薬を差別するようなことはなく、病気次第では高価な薬を与えてくれ、それに反する日本政府の建てた病院(箱館病院のこと)はだめだとしています。襄の記録は少々極論めいていますが、ロシア病院が好評だったのはおおむね事実のようで、受診数の多さから、後に幕府が禁止したほどです。ロシア病院に関する記録はほとんど残されておらず、襄の記述は貴重なものです。
※執筆:箱館歴史散歩の会主宰 中尾仁彦(なかお とよひこ) 2010/08/01公開
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