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函館に歴史を刻んだ偉人⑥柳川熊吉

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写真:柳川熊吉(函館市中央図書館所蔵)
 
(下記は、案内板等に記された一般に伝えられている内容ですが、事実と確認できる資料の存在は不明です)
 
浅草の料亭の息子として生まれ、浅草の火消しを担当した10番組「を組」の侠客・新門辰五郎の配下とも言われます。1856(安政3)年に江戸から来て請負業を営み、五稜郭築造工事の際には、労働者の供給に貢献しました。その後、箱館で江戸流柳川鍋の商売を開始。本名は野村熊吉でしたが、その味覚を賞賛する箱館奉行の堀利熙から「柳川」と呼ばれていたため、姓を柳川に変えたと言われています。刺青もなく、酒、タバコを呑まない任客でした。
1869(明治2)年に箱館戦争が終結すると、敗れた榎本軍の遺体は「賊軍の慰霊を行ってはならない」との命令で、市中に放置されたままでした。新政府軍のこの処置に義憤を感じた熊吉は、600名の子分に迷惑を掛けないように杯を返し、「死ねば皆仏」と実行寺の日隆住職や奉行所建築の棟梁・大岡助右衛門と一緒に、数日間を掛けて遺体を集めては同寺に葬りました。実際は子分や住民が協力していましたが、新政府軍の取調べでは一人で約700人(異説も)を収容したと言い張ったそうです。軍事裁判で死刑判決を受けましたが、熊吉の侠気に感動した新政府軍の田島圭蔵の計らいで断罪を免れ、放免されます。
 
1871(明治4)年、熊吉は函館山山腹に購入した土地に遺体を改葬し、1875(明治8)年には、榎本軍の戦死者を慰霊する「碧血碑」を建てました。碧血とは「義に殉じて倒れた武人の血は、三年たつと碧色になる」という中国の故事で、碑の題字は大鳥圭介(中村正直説も)の書と言われています。
 
その後、熊吉は谷地頭で料亭「柳川亭」を開業。100畳の広間をもつ数棟、庭に3つの池と滝があるかなり大きな規模でした。榎本武揚は博打の鑑札を与え、北海道に来るたびに宿泊するようになります。その料亭をやめ、1916(大正5)年には現在の市営谷地頭温泉付近にそば屋「柳川」を開き、その流れは現在の「丸南そば」に引き継がれております。
 
熊吉88歳の寿に際し、「碧血碑」の傍に有志らはその義挙を伝えるため「寿碑」を建てました。

※執筆:箱館歴史散歩の会主宰 中尾仁彦(なかお とよひこ) 2010/08/01公開

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