新島襄海外渡航の地碑
「一国の良心」ともいうべき人々を育成する――。同志社の校祖・新島 襄が目指した教育理念です。その基礎となったキリスト教を信仰し、英語を学ぶために上海経由でアメリカへと渡る起点となったのが、ここ函館(当時は箱館)です。
国防強化に消極的な幕府の姿勢に疑念を抱く一方、日本語訳された「ロビンソン・クルーソー物語」に感銘を受けるなど、海外志向の強かった襄(本名・七五三太〈しめた〉)。アメリカへの夢を日に日に募らせる中、21歳だった1864(元治元)年、チャンスが訪れます。かつて江戸から玉島(現在の岡山県倉敷市)までを航海した「快風丸」に再び乗船できることになり、幕府から監視の目が届きにくいと目論んで函館へ。名目上は武田斐三郎の塾に入門するためでしたが、江戸に戻っていた斐三郎とは結局、会えずじまいでした。
しかし、あくまでも願いはアメリカ行き。函館で知り合った襄のよき理解者・沢辺琢磨から、イギリス人経営の外国商館で支配人だった福士宇之吉(後の成豊)を紹介してもらい、箱館~上海間を航行するアメリカ船での脱国を企てます。表沙汰になれば、襄はもちろん、宇之吉も死罪になるところでしたが、計画は成功。帰国後の活躍は、誰もが知るところでしょう。
襄が脱国した場所は、かつての外国人居留地の岸壁で、函館港に浮かぶ「緑の島」に架かる橋「新島橋」の脇に位置します。
石碑の台座部分にはめ込まれた大理石製の記念碑面は1952年に同志社大学から函館市に寄贈されたもので、同年7月17日に倉庫の壁面に設置されたもので、1954年に新たに完成した石碑の台座へはめ込まれ、同年8月21日に当時の宗藤大陸函館市長や同志社の大塚節治総長、関係者、校友、学生など約100人が参列し、除幕されました。
また、赤レンガ倉庫群方面へ2、3分ほど歩いた末広緑地には、海外渡航時の姿を再現した襄のブロンズ像が建っています。
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詳細情報
住所 | 函館市大町11 |
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アクセス情報 |
市電 「末広町」電停 下車 徒歩7分 |
問合せ先 | 函館市観光案内所 |
電話番号 | 0138-23-5440 |
駐車場 |
なし |
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同志社のあゆみ|学校法人同志社 「新島襄海外渡航乗船之処」碑 |