咬菜園跡
市電「大町」電停を降りると、函館山に向けてスーッとまっすぐに伸びる弥生坂があります。この急坂を上っていくこと10分ほどのところに、「咬菜園跡」という案内板があります。1857(安政4)年、名主で慈善家として知られていた堺屋新三郎が、箱館奉行から1140余坪(約3770平方メートル)の土地の払い下げを受けてここに庵を作り、各地の名花、名木を移植。四季折々の美しい花が咲き乱れ、当時の住民から箱館随一の名園として親しまれていました。咬菜とは粗食のことで、五稜郭設計監督の蘭学者・武田斐三郎(あやさぶろう)が名づけ親です。
箱館戦争時の1869(明治2)年、明治新政府から榎本軍(旧幕府軍)の追討令が下り、新政府軍艦が品川を出港したとの報に接した軍総裁・榎本武揚は、3月14日に大鳥圭介、中島三郎助、高松凌雲など幹部と共に、今宵最後と咬菜園で清遊を試みました。箱館奉行並中島三郎助は、俳人としても知られて数多くの秀作を残していますが、「ほととぎす われも血を吐く思い哉」「われもまた 死士と呼ばれん白牡丹」の辞世の句などは、このとき残したものといわれています。
坂上からまっすぐ坂下を見おろすと、ペリー提督上陸地であった沖之口番所跡地(現函館市臨海研究所)が見えます。また、港が一望できて、遠くには五稜郭跡も見渡せます。榎本らは戦いが始まる前に、市街地を一望できて五稜郭も眺められる函館山麓のこの場所を選び、来たるべき戦いに向けて酒を酌み交わし、国の将来のことなどを思い明かしていたかもしれません。
現在、咬菜園跡は私有地となっているので、見学の際はマナーを守り、敷地内への立ち入りなどはご遠慮ください。
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英語看板
詳細情報
住所 | 函館市船見町3-8 |
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アクセス情報 |
市電 「大町」電停 下車 徒歩10分 |
問合せ先 | 函館市観光案内所 |
電話番号 | 0138-23-5440 |
利用時間 |
私有地のため、敷地内に立入不可 |
駐車場 |
なし |