新選組最後の地碑
箱館戦争時、新選組が中心となった旧幕府軍が陣取っていた「弁天台場(弁天岬台場ともいわれる)」が、新政府軍の攻撃を受けて、1869(明治2)年の旧暦5月15日(現在の暦で6月24日)に降伏。これにより、京都で名を馳せた新選組の戦いに終止符が打たれました。
この石碑は2010(平成22)年に函館歴史顕彰会が建立したもの。市電「函館どつく前」電停近くの入舟児童公園内にありますが、実際の弁天台場の位置は電車通りをはさんで反対側、現在の函館どつくの位置にありました。そちらには現在、弁天台場跡の標柱があります。台場自体は、1896(明治29)年の港湾改良工事の際に石垣が取り壊されたうえで周囲を埋め立てられ、現在は函館どつくの建物などが建ち並んでいます。
1869(明治2)年、旧暦5月11日(現在の暦で6月20日)、新政府軍による箱館総攻撃の当日、弁天台場では箱館奉行・永井玄蕃ほか、百余名の新選組隊士を含めた約240名が守備に当たっていました。山背泊(函館山の裏側)から上陸した新政府軍の長門、岡山、津、津軽、徳山等の藩兵や、軍艦甲鉄、春日からの砲撃にさらされ、伝習士官隊長瀧川充太郎が新選組、伝習士官隊を率いて箱館山へ向かったものの、山頂からの攻撃は圧倒的。大森浜沖の新政府の軍艦陽春からも側面攻撃を受け、一本木関門付近まで退き、さらに五稜郭まで後退。市街地は新政府側の手に渡り、土方歳三は箱館の市街や弁天台場を救援すべく一隊を率いて一本木関門からの進撃を試みたものの、土方自身は一本木関門付近(諸説あります)で狙撃され落命。市街地が新政府側の手に落ちたことにより、弁天台場の旧幕府軍は孤立し、箱館奉行ともども降伏。これにより、新選組の戦いは終わり、函館は新選組最後の地として記憶にとどめられることになりました。
古写真:函館市中央図書館所蔵
この石碑は2010(平成22)年に函館歴史顕彰会が建立したもの。市電「函館どつく前」電停近くの入舟児童公園内にありますが、実際の弁天台場の位置は電車通りをはさんで反対側、現在の函館どつくの位置にありました。そちらには現在、弁天台場跡の標柱があります。台場自体は、1896(明治29)年の港湾改良工事の際に石垣が取り壊されたうえで周囲を埋め立てられ、現在は函館どつくの建物などが建ち並んでいます。
1869(明治2)年、旧暦5月11日(現在の暦で6月20日)、新政府軍による箱館総攻撃の当日、弁天台場では箱館奉行・永井玄蕃ほか、百余名の新選組隊士を含めた約240名が守備に当たっていました。山背泊(函館山の裏側)から上陸した新政府軍の長門、岡山、津、津軽、徳山等の藩兵や、軍艦甲鉄、春日からの砲撃にさらされ、伝習士官隊長瀧川充太郎が新選組、伝習士官隊を率いて箱館山へ向かったものの、山頂からの攻撃は圧倒的。大森浜沖の新政府の軍艦陽春からも側面攻撃を受け、一本木関門付近まで退き、さらに五稜郭まで後退。市街地は新政府側の手に渡り、土方歳三は箱館の市街や弁天台場を救援すべく一隊を率いて一本木関門からの進撃を試みたものの、土方自身は一本木関門付近(諸説あります)で狙撃され落命。市街地が新政府側の手に落ちたことにより、弁天台場の旧幕府軍は孤立し、箱館奉行ともども降伏。これにより、新選組の戦いは終わり、函館は新選組最後の地として記憶にとどめられることになりました。
古写真:函館市中央図書館所蔵
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歴史好きに
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市電から徒歩5分以内
詳細情報
住所 | 函館市入舟町6 |
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アクセス情報 |
市電 「函館どつく前」電停 下車 徒歩すぐ |
問合せ先 | 函館市観光案内所 |
電話番号 | 0138-23-5440 |
駐車場 |
周辺に有料駐車場あり |
関連リンク |
函館市史デジタル版 通説編 第2巻 第4編 箱館から近代都市函館へ |